COLUMN

元サッカー日本代表・橋本英郎の逆境に立ち向かう「オン・オフ」成長論 VOL.4

ガンバ大阪やヴィッセル神戸で活躍し、日本代表としても出場経験がある橋本英郎選手。現在はFC今治で現役を続ける傍ら、チャリティーイベントなどの社会貢献活動、メディアでのコラム執筆など、多方面に活躍の場を広げている。そんな橋本選手はサッカー黄金世代として、地元ガンバ大阪の育成組織で稲本潤一選手らとプレーしつつ、府内有数の進学校である天王寺高校に通いながら「文武両道」を実践してきた。苦労を続けながらもガンバでレギュラーとして活躍するようになり、「スポーツ推薦での大学進学」を目標とした高3の夏、予想もしないオファーが届きーー。

これまで連載でお送りしてきた橋本選手の「逆境に立ち向かう『オン・オフ』成長論」の最終回です。

推薦での大学進学が決まる状況で届いたプロのオファー

 ガンバユースでも試合に出られるようになった僕は、大学進学を次の目標としていました。当時はプロになる気もなかったし、なれるとも思わなかったですからね。僕が高3の年、大阪でなみはや国体(1997年)が開催され、大学生とも練習試合をよくやらせていただいていました。その流れもあって、希望する大学に推薦では行けそうになり、「よっしゃ! もう受験せんでいいわ」って思っていました(笑)。

 そんな状況の8月に、意外にもガンバから「(トップチームに)上がれる」というお声がけをいただいたんです。「え! 僕がプロになれるの?」と、予想もしていなかったオファーに驚くと同時に、推薦での大学進学の話も進んでいましたからすごく戸惑いましたね。

1997年、高3夏の第21回日本クラブユース選手権大会にて。後列左から2番目が橋本選手。

 

プロと進学の狭間で揺れ動く想い

 トップチーム昇格は練習生での扱いということでしたが、高3でパフォーマンスがグッと上がったこともあって、そこを乗り越えればプロとしてやっていける自信もありました。ただ、両親からは「大学に行ったほうがいい」と。プロは厳しい世界ですから、両親の反応は当然だったと思います。先にプロに昇格した稲本(潤一)や新井場(徹)は、通信制の学校に転校するなどしていましたが、僕は天王寺高校で勉強もサッカーも欠かすことなくやってきたので、本当に1日の時間に余裕がありませんでした。そんな苦しい3年間を経て大学に進学しないのも、どこか引っかかっていたのは事実です。もともと目標は大学に進学することでしたからね。

 高校の先生に相談したところ、先述したように希望の大学は指定校推薦で行けそうだったのですが、ガンバユースの先輩と同じ大学だったので、「これは絶対に比較されるな」と(苦笑)。そこで「サッカーで勝てないなら学業だけでも勝ってやろう」と思うようになったんです。大阪市立大学経済学部は、サッカーの実績も生かした特殊な受験方法を採用していたので、目標を切り替えることにしました。

 

ガンバユースのレギュラーで大阪市立大学を現役合格

 僕にはサッカーで国体出場、全国大会ベスト8、Jユースカップ、クラブユース選手権で準優勝の実績があったことと、センター試験の成績が合格ラインを越えたことで、無事に大阪市立大学経済学部に合格することができました。

 高校生活はサッカーも学業も本当に苦しかったし、悩んだこともたくさんありました。だから合格発表の掲示板に自分の受験番号を発見した時は「神様は本当にいるんだな」「努力は報われるだ」と思い、全身からスーッとチカラが抜けていく感覚でした。「これで立ち止まらなくて済む」と安堵したのを覚えています。

 プロ生活と浪人生活の両立は難しかったと思うし、人生における大きな分岐点だったことは間違いありません。受験は大きなプレッシャーで押し潰されそうになり、本当に苦しかったですが「ここから再びプロに挑戦できる」と決意を新たにしました。

 

大学生活でも続けた「オン・オフ」の環境づくり

 高校卒業後は、練習生契約で加入したガンバ大阪と、大阪市立大学での学業という「両立」を再び続けることになりましたが、「オン・オフ」を意識できる環境を作ることは変わりませんでした。

 同期入団には稲本、新井場、そして同じ練習生契約だった播戸(竜二)がいましたが、僕はガンバの練習が終わったら大学に行っていたので、彼らと絡むことは少なくなっていました。食事に行くのも大学の友達だったし、練習以外の大学の時間が僕にとっての新たな「リラックスできる場所」だったんです。サッカーのカテゴリーがプロに上がっても、中学から続けてきた僕の「オン・オフ」生活は、僕を支え続けてくれたんです。

 練習生契約から2年目でプロ契約になり、プロと学業の両立を続け、2002年に大学を卒業してからはプロ1本になりました。それから監督の西野(朗)さんに出会い、2005年にはクラブ初のリーグ優勝に貢献することができました。

 

スポーツを通して得られた人との出会いと繋がり

 僕は中学、高校、ジュニアユース、ユースと指導者の方々に本当に恵まれてプロになれたと思っています。プロになってからも当時コーチを務めていた堀井(美晴)さんに「お前は器用貧乏で全てが平均点より少しだけ上」と告げられショックを受けましたが、僕に「ポジショニング」という評価される1つの技術を教えてくれました。堀井さんから「ポジショニングという技術を追求してみたらどうだ?」とアドバイスをいただき、それを自分の武器とするべく研鑽を積んだことで、プロで生き残ることができたと思います。そう思うと人との出会いは本当に大事なんだと思いますね。

 あと、僕は常に自分より上手い人間がいる環境で育ってきました。中学、高校、そしてプロになって以降もずっとそうです。稲本ら「黄金世代」と呼ばれる世代であったがゆえに、常に基準を高く持つことができました。それも大きかったと思います。

 

サッカーを通して「育まれたチカラ」とは?

 僕が物事を客観的に見て、自己分析をできるようになったのは中学1年の出来事が大きいと思っています。むしろ自己分析せざるを得なかったという表現が正しいでしょうか。それまでエースでキャプテンで「自分は上手い」と思っていたものが、井の中の蛙であったことを知り、自分が足りないものを否が応でも突きつけられたんです。

 しかし、それはサッカーというスポーツを通してこそ、得られたものだと思います。日常であれば、中学1年で厳しい現実を突きつけられる状況など、なかなかないでしょう。スポーツは「楽しむ段階」では集中力など感性が上がり、それが競技に変わることで、理不尽な要素が入り込み「実力社会」に変わり始めます。それが僕の場合は、中学1年生のタイミングだったということです。

 しかし、そんな環境下であっても戦っていける心の強さを、僕はスポーツを通して育めたと思っています。僕はプロという特殊な道に進みましたが、両親は選択肢として常に安定を求めていたと思います。最終的に僕が押し切った部分があるとは思いますが、両親、兄、姉が道筋を作ってくれたことで、今の僕があります。

 SPODUCATIONでこのコラムを読んでいただいている皆さまも、もし子どもが「チャレンジをしたい」と強く望む時がきたら、いろいろな障壁はあるとは思いますが、そっと背中を押して上げていただけると嬉しいですね。

 

PROFILE

はしもと・ひでお

1979年5月2日生まれ、大阪府出身。1998年にガンバ大阪に入団、2019年よりFC今治にてプレー。日本代表としても国際Aマッチ15試合出場。2014年にプエンテFCスクールを開講し代表に就任。

 

【スポーツ成長法則~back number~】

【#01】ガンバ育成組織と偏差値75の進学校という「究極の両立」

【#02】苛烈な競争下、“違った視点を持つ”選手に

【#03】高校で見つけた新たな「サッカーを楽しむ場所」

【#04】サッカーを通して「育まれたチカラ」とは?

 

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