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名波浩×野村忠宏×飯田哲也│「磨き続けた時間が、誰も真似できない武器になる」

元サッカー日本代表の名波浩氏を進行役に、豪華ゲストがスポーツが持つチカラについて解き明かす。第一回は野球界、柔道界のレジェンドを招き、スポーツを通した至高の経験と努力の軌跡を語り合った。(※2020年6月に収録)

共通する幼少期の体験、それは「楽しむ」ということ

名波 まずは皆さんの生い立ちから語っていただきたいと思います。僕は男4人兄弟の末っ子で、静岡県藤枝市、サッカーの街で生まれました。自然にサッカーをする環境で育ち、清水市というライバルエリアがあったことから、常に目標設定を高く置くことができました。飯田さんはいかがでしたか?

飯田 僕の出身地である東京の調布市は、リトルリーグが盛んで小さい頃から野球しかやっていなかったですね。現在はシニアリーグで活躍して、甲子園常連高に行くケースが多いのですが、僕の時代はセレクションがあって、中学校の野球部から千葉の拓大紅陵高校に進学しました。それまではずっとピッチャーをやっていたんですよ。

名波 そうなんですか? 飯田さんはスプリンターのイメージがあります。

飯田 僕は身体が小さいので、セカンドに行ったり、サード行ったり、外野に行ったり、いろいろなポジションを経験しました。僕の特徴は足が早いことだったので、いろんなポジションをできたことはポジティブに捉えています。当時、指導者からは「野球を楽しみなさい」と言われていましたね。一人で落ち込むんじゃなく、仲間を大事にして楽しむんだと。

名波 僕も「一人でサッカーやってるんじゃねえ!」と言われていました(笑)。ハーフタイムに一人だけ泣きながら外周を走らされた記憶がありますよ。

飯田 野球もサッカーもチームプレーですからね。

野村 僕は祖父が今から85年前に町道場を設立し、親父は天理高校の柔道部の監督を務め、親父の弟さんはミュンヘン五輪の金メダリストという柔道一家でした。僕は3歳から柔道をしていましたが、小学校のクラブ活動はサッカーをしていましたし、地元の野球少年団にも入っていました。中学からは柔道一本に絞りましたが、まあ弱かったです(笑)。黒帯の試験も何回か落ちましたし、生まれた環境と実績だけ見たらエリートと思われがちですが、実際はそうではなかったですね。

名波 黒帯の試験ではどのようなことをするのですか?

野村 初段は満14歳から受けられ、形(かた)の審査とポイント制で行われる試合の審査があります。一発で合格する人もいますが、僕はそうではなかったですね。

名波 野村君は最初から強い柔道家じゃなかったということですね。

野村 軽量級の中でも、僕はひと際身体が小さかったんです。55kg以下級が最軽量なんですが、中学1年の時は30kgしかなかったほどです。祖父は子どものうちは柔道を楽しみ、好きになったら主体性を持ち、目標ができたらいいと教えてくれました。厳しい練習をしなかったので、強くはなれなかったですね。でも、その時の楽しかった思い出があったから、自分はいろんなスポーツにトライした上で柔道を選んだんです。柔道をやらされるではなく、自分からやると決めたことが後の支えにもなりました。

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