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名波浩×鈴木啓太×青木愛│「不安があるから人は強くなれる」

元サッカー日本代表の名波浩氏を進行役に、豪華ゲストがスポーツが持つチカラについて解き明かす。第二回は元サッカー日本代表で実業家の鈴木啓太氏の対談からスタートし、中盤からアーティスティックスイミングメダリストの青木愛氏を交えて白熱のスポーツ談義が展開されます。トップアスリートならではの苦悩や葛藤、それを乗り越えた成長物語の数々。スポーツに内在する<人を育むチカラ>に迫ります。(※2020年8月に収録)

 

「ネガティブ」は「ポジティブ」に変換できる

名波 本日はサッカー元日本代表であり、AuB(オーブ)株式会社の代表を務める実業家でもある鈴木啓太さんとともに、スポーツが育むチカラについて迫っていきたいと思います。

鈴木 よろしくお願いします!

名波 小さい頃のエピソードから伺っていきたいと思いますが、ここからは普段通り「啓太」と呼ばせていただきます(笑)。幼少期、辛かった経験はありましたか?

鈴木 サッカーを始めた頃は楽しい記憶しかないです。名波さんと同じ静岡県の清水FCに所属していて、ほとんど休みがなかったですね。学校の少年団の練習で週5日、清水FCの練習で夜、土・日の週4日は行っていました。

名波 夕方まで少年団で練習して、夜は清水FCでほぼ毎日2部練習をしていたということ!?

鈴木 そうですね。ほぼ毎日母親がおにぎりを持ってきてくれました。車で夜の9時頃に帰ってきて、夕食を食べてすぐ寝るという毎日。その頃になると、流石に「楽しい」だけではなくってきましたね。

名波 僕も少年団でやっていましたが、冬は午後5時くらいに日没して暗くなっちゃうじゃないですか? だから親がグランドの横に車をつけて、ヘッドライトで照らして練習をできるようにしてくれていたんですよ。

鈴木 え!? ナイターの設備はなかったんですか?

名波 ナイター設備があるところは当時からありましたよ。でもお金がかかるじゃないですか? 親が協力してくれたんですよね。毎日車で送り迎えをしてもらっていました。啓太もそうだけど、親には感謝だよね。

鈴木 当時の僕は、そのありがたみの意味を分かっていなかったんですよ。今思えば、両親はとんでもない労力をかけてくれていたのだと思います。

名波 清水市はサッカーが盛んな地域ですが、憧れの選手はいましたか?

鈴木 それって、僕に「名波さん」と言わせようとしてます?

名波 いや、まあそうなんだけど(笑)。

鈴木 アッハッハ(笑)。でも、本当に僕が小学生の頃は名波さんのプレーを見て憧れていましたよ。あとは現在、北海道コンサドーレ札幌の社長を務めている野々村芳和さんから直接教えてもらっていましたね。僕が小学校低学年の頃はまだプロリーグが日本になかったので、静岡県の高校サッカーがすごく身近にあり、憧れでした。あと、小学校の先輩に長谷川健太さんがいて、毎年1月2日に「初蹴り」として小学校に来てくれていたんです。一緒にボールを蹴ってくれて、当時から憧れていました。

名波 啓太は中学校では東海大一中(現在の東海大学付属静岡翔洋中学校)に通い、居住している清水市から越境していたよね?

鈴木 僕が小学5年生の頃にJリーグが開幕し、新設された清水エスパルスのジュニアユースの試験を受けるか、地元の中学に行くか、父が通っていた東海大一中に行くかという状況でした。川口能活さん(日本サッカー協会アスリート委員会委員長)、高原直泰さん(沖縄SV株式会社CEO)という先輩がいたこと、自分は当時まだ身体が小さくて、技術を磨きたいという思いから東海大一中に行きました。

名波 小さい身体のコンプレックスを、どのようにモチベーションに切り替えていったのですか?

鈴木 周囲の大人が「いつか勝負ができる身体になる」、「焦るな」と言ってくれたのが大きいです。身体が小さくても、高校生の時に活躍できればいいと思えるようになりました。それに、早熟より遅咲きの方がいろいろおいしそうだと思って(笑)。

名波 僕は小学生の草サッカー の頃から47歳の今まで、ずっと対戦相手から「そいつ左足だけだから」って言われ続けてきた。第三者からネガティブなことを言われ続けてきた。でも、僕も啓太のように周囲の大人から「ずっとお前は左足でやっていればいいんだ」と言ってもらってたんだよね。高校時代のブラジル人コーチなんか、「お前が右足使ってたら、選手として魅力がなくなるぞ」って言くれて、それが一番心に響いてる。

鈴木 それはすごいことですね。こんなことを言うのもすごく失礼かもしれませんが、名波さんと現役として対戦させたいただいた時に「左足をケアしておけばいい」と仲間から言われていたんですよ。でも、それを遥かに凌駕する左足で、結局全然止められなかったです(笑)。

名波 相手にそう思わせるモチベーションでやらないと、俺は大成しないと思ってやっていたからね。それに試合中に「そいつ右足では何もしないから!」って聞こえるように言われるんだから、失礼極まりないよ(笑)。遅咲きでいい、大人になってからでいいと思うと、心にも余裕ができるよね。

鈴木 大体ネガティブな要素って、ポジティブに捉えることができるんですよね。でもそれは子どもだけでは気づけないから、周りが言ってあげることはすごく大事だと思います。

 

中学生で訪れた初めての挫折
支えてくれる家族の存在が後の支えとなる

名波 サッカーをやっていると、楽しかったり、悔しかったり、色んなエピソードがあると思います。啓太にとって特に印象に残っているには何時頃だった?

鈴木 中学生の時ですね。小学生の頃は全国大会で準優勝を経験し、それなりに自信を持っていました。それが中1になると、試合に全然出られなくなってしまったんです。自分の方が上手いと思っていた仲間がどんどん上に呼ばれて、それが悔しくて……。中1の夏休みではチームの遠征に連れて行ってもらえず、1人で自主練をしていました。それを見かねた父が「一緒にボールを蹴るか」と付き合ってくれて、「誰かが必ず見てくれている」と励ましてくれたんです。それから夏以降は少しずつ試合に出られるようになっていきました。落ち込んだときに家族が支えてくれたことは、僕にとってすごく大きかった。サッカーってチームでやるスポーツじゃないですか? 自分1人では何もできないし、周りの支えがあって「よし、頑張ろう」って思えるようになるんですよね。試合に出ることが当たり前に思っていた自分を変えるきっかけになりました。

名波 中学生になるとフィールドサイズが大きくなり、ボールも大きくなって、人数まで変わってしまう。中1は苦労する子がたくさんいると思うんだけど、啓太にとってそれを乗り越えられたのはご両親のおかげだったんだね。

鈴木 そうですね。あと、もう一つは中3で全国大会に出場した時のことです。試合に選ばれなかったメンバーが、マネージャーのような役割で帯同し、ケガした選手のアイシングを夜中まで付き合ってくれてたんですよ。もちろん、彼らは悔しかったと思うんですけど、その与えられた役割に誇りを持ってやってくれていました。結果、全国中学校サッカー大会で優勝し、一緒になって喜べたことは本当に嬉しかったです。今でもメンバーが一緒に集まって、お酒を飲む時に語り合っています。中高生の時期の仲間の絆はすごく大事ですよね。

名波 人間関係が希薄になりつつあるこのご時世、仲間の存在は大きいよね。東海大一中には、試合に出られない選手にも役割を与えるという伝統があり、それを選手たちが実践できたからこその全国制覇だったんだろうね。

鈴木 まあ、好き勝手やっている選手もいたんですけどね。その意味では個性の強いチームだったと思います(笑)。

 

たくさんのスポーツに触れることで生まれる「気付き」
幼少期に「没頭する」ことの大切さ

名波 サッカーの他にスポーツはどんなことをしていましたか?

鈴木 幼稚園の頃に体操を、水泳は小学校1、2年でやっていました。

名波 それがサッカーに活きていたと思うことは?

鈴木 きっと活きていたと思うんです。だからこそ、もっと他のスポーツをやっておけばよかったと思っています。例えばバレーボールなんですが、田中マルクス闘莉王はビーチバレーをやっていたらしいんですよ。

名波 そうなんだ?

鈴木 バレーボールは前に走って行って、そのスピードを生かして垂直に飛ぶんです。闘莉王ってヘディングにいくと見せかけて、胸トラップができたじゃないですか?

名波 確かにそうだね。

鈴木 あれは垂直に飛んでいるからなんです。みんな競り合わないといけないから早く飛ぶんですけど、闘莉王だけが真上に飛ぶからできるんですよ。それに気づいたのは、子どもたちと一緒になっていろんなスポーツをする「ボールゲームフェスタ」というイベントに参加したからなんです。

名波 この話を聞いてるお子さんが、サッカーからバレーに行ってしまうもしれないよね(笑)。スポーツ界全体で見ればいいことかもしれないけど(笑)。さて、ここまでサッカーを中心に盛り上がって来ましたが、ここからはアーティスティックスイミング(2017年よりシンクロナイズドスイミングから競技名を変更)日本代表の青木愛さんを交えてお話を進めていきたいと思います。青木さん、よろしくお願いします!

青木 よろしくお願いします!

名波 青木さんは啓太と面識があるんですよね。

青木 先ほど啓太さんがおっしゃっていた「ボールゲームフェスタ」のアンバサダーを一緒にさせていただいてます。このイベントは、子どもたちがボールを使ってさまざまなスポーツに全力で取り組むことをテーマにしています。最初は誰もできないのは当たり前じゃないですか? でもそこで諦めるんじゃなくて、一生懸命やり通すことを目的として活動を行っています。

鈴木 一般社団法人日本トップリーグ連携機構が主催となって、ラグビーやソフトボールなど各スポーツ競技のトップアスリートが講師となって参加します。子どもたちがアスリートの方々と一緒になって取り組めるイベントになっているんですよ。

名波 ちなみに青木さんはアーティスティックスイミング以外にスポーツはやっていたのですか?

青木 いえ、地元の京都で0歳10ヶ月からベビースイミングをやって水泳一筋でした。

名波 0歳っていうのもすごいですね!

鈴木 だとしたら青木さんは「ボールゲームフェスタ」では初めてやる競技ばかりだったんじゃないですか?

青木 そうですね。学校の授業でバレーボールやバスケットボールはしたことがあるんですけど、ラグビーはボールゲームフェスタで初めて体験しました。ハンドボールなどもそうですね。

鈴木 僕は高校でラグビーをちょっとやったんですけど、トップリーグの選手と一緒にやるとやっぱり違いますよね。こんなに面白いんだ! って色々な気付きがありました。

 

許されない一週間の無断欠席
そこで気づいた「本当の気持ち」

名波 アーティスティックスイミングは非常にハードなスポーツだと思いますが、幼い頃からずっと続けられて辛いことはなかったですか?

青木 小2から本格的に始めたのですが、練習漬けの毎日が当たり前だったので、苦しいと思ったことはないです。夏休みは朝9時から夕方の6時まで毎日やっていました。

名波 1日中水に入りっぱなしということですか!?

青木 お昼の食事とプールサイドでの振り付けの練習以外はそうですね。

名波 青木さんは京都のご出身ですが、小学生の頃から大会で名を馳せていた?

青木 小4で全国大会で優勝しました。それで中2の頃に井村雅代監督(五輪代表監督として数々の功績を残し「シンクロ界の母」と称される名指導者)の井村シンクロクラブからお声がけをいただきました。壁にぶつかったのはその後からですね。

名波 井村シンクロクラブにはどのように通っていたのですか?

青木 京都の実家から大阪まで電車で通っていました。夜の9時まで練習するので、家に着くのは深夜11時を回っていました。おにぎりを常に持たされていたので、練習終わりにすぐ食べて、帰ってから夕食を食べるという毎日でした。

名波 大変失礼な質問かもしれませんが、体重はどのように調整されていたのですか?

青木 痩せやすい体質だったので、むしろ周りから「食べなさい」と言われていました。

鈴木 僕も一緒です。食べないと痩せてしまうモヤシのような体型だったので(笑)、プロになってからも必死に食べていました。だから食欲が上がらない夏場は苦労したし、補助食品などを取り入れ試行錯誤しましたね。引退すると運動量が減る分、筋肉量もなくなるので、「今は脱いだらすごいんですよ!」って言いたいんですが、言えないです……(笑)。

名波 先ほど青木さんが「壁にぶつかった」とおっしゃっていましたが、これまで飄々と話していた青木さんが言うと、それはとてつもなく高い壁だったと想像します(笑)。

青木 そんなことはないんですけど(笑)、井村シンクロクラブにいる先輩がとにかく怖かったんです。高校生だから練習後に繁華街にも行くじゃないですか?

鈴木 繁華街!? そんなもの僕ら静岡にはなかったですよね?

名波 そういうところとはかけ離れた場所にいたからね(笑)。

青木 京都には四条河原町というところがあって、学生は大体そこに遊びに行くんですよ。「こんなに先輩が嫌やのに、なんで私は毎日通っているんやろう」って、ある時に練習を無断欠席してしまったんですよ。そのまま学校終わりに四条河原町に遊びに行ったんですけど、面白かったのは最初の一瞬だけ。「なんか違うな」って違和感しかなかったんです。そこで思ったのがやっぱり練習をしてないから。「早く泳ぎたい」って思ったんです。

名波 なるほど。

青木 でも無断欠席をした後ろめたさから、ズルズルと一週間くらい休んでしまったんです。毎晩担当コーチの方が「明日はおいでや」って電話をくださるんですけど、次の日の学校が終わるタイミングなると「やっぱり無理や。井村先生に怒られる……」ってなるんです(苦笑)。

鈴木 その気持ちはすごく分かりますね。

青木 そしたら、家族で親しくさせてもらっている大先輩の武田美保さん(五輪2大会メダリスト)のお母さんが家に来てくださったんですよ。おそらく母が私を心配して伝えてくれたと思うんですけど、武田さんのお母さんが「入るで!」って(笑)。私の部屋に入ってきて、「美保も昔はそんな時があったけど、それを乗り越えたから今があるんや」って激励してくださったんです。美保さんのような人でも壁にぶつかったことがあるのに、私がこんなことしてる場合じゃないなって。翌日、井村シンクロクラブに行きました。

名波 まず最初に謝った?

青木 はい。そして井村先生にバチバチに怒られました(笑)。

鈴木 やっぱりそこは怒られますよね(笑)。

名波 最初は練習を休む理由が先輩に向けられたものでしたが、途中から「申し訳ない」という内なる自分へと矢印が変わりましたよね。

青木 そうなんです。競技と一瞬離れたからこそ「アーティスティックスイミングが好き」ということに気付けました。そして団体競技だからこそ、周りに迷惑をかける申し訳なさもありました。

名波 青木さんにとって貴重な一週間でしたね。

青木 無断欠席は決して許されることではないし、後付けかもしれませんが、今ではよかったと思っています。

ケガによる日本代表辞退
絶望を救ってくれた監督との特別な時間

名波 アスリートにとって切っても切り離せない「ケガ」についてお伺いしたいと思います。啓太は高校までどうだった?

鈴木 僕は足首が弱かったので捻ったことはありますけど、それより精神的な問題の方が大きかったと思います。監督に怒られるストレスから、胃潰瘍になったこともありました。

名波 青木さんもそうだけど、みんな大変だね……。

鈴木 その時があるから、今頑張れる。そう肯定化して、美化したい気持ちもあります。でも、正直今でも理解し難いことがあるんですよ。当時の時代もあるとは思うのですが……。

名波 青木さんはどうでしたか?

青木 初めて日本代表に入った年に大きなケガをしました。肩に水が入ってしまう病気なのですが、四十肩のように肩が上がらなくなってしまうんです。井村先生はその時、中国代表の監督を務められていたのですが、一緒に病院に来てくれてました。多忙な時期だったと思うのですが、毎日リバビリにも付き合ってくださいました。

名波 毎日!? それはありがたいことですね。

青木 井村シンクロクラブ所属は大所帯なので、一度も井村先生に見てもらえない生徒もいるくらいなんです。それなのに怪我の功名じゃないですけど、井村先生を独り占めみたいな(笑)。

名波 それでも不安はあったのではないですか?

青木 日本代表に戻れるのか、ずっと心配していました。井村先生ってチームの時はものすごく怖いんですけど、個人で向き合うと優し……くはないか(笑)。一つひとつ丁寧に接してくださって、私も質問がしやすかったです。すごく貴重な時間だったと思いますね。

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