ガンバ大阪やヴィッセル神戸で活躍し、日本代表としても出場経験がある橋本英郎選手。現在はFC今治で現役を続ける傍ら、チャリティーイベントなどの社会貢献活動、メディアでのコラム執筆など、多方面に活躍の場を広げている。そんな橋本選手は“サッカー黄金世代”として、地元ガンバ大阪の育成組織で稲本潤一選手らとプレーしつつ、府内有数の進学校である天王寺高校に通いながら「文武両道」を実践してきた。中学時代、猛者が集まるガンバ大阪ジュニアユースのレベルの高さに戸惑い、サッカーを続ける意味を模索していた橋本選手。そんな自身の姿勢を変えた「ある出来事」とは?
COLUMN
COLUMN元サッカー日本代表・橋本英郎の 逆境に立ち向かう「オン・オフ」成長論 VOL.2
理不尽に直面した時、人はどう行動するか
中学1年の頃、片道1時間の練習場の往復と毎週の塾通いで、ガンバ大阪ジュニアユースでの練習に満足に参加できていませんでした。チームの人数も多いので、練習試合にはなかなか出られず、4本目とか5本目の最後にやっと出場できる程度でした。それでも諦めずに、必死になって通い続けていたんですね。
そんな時にある噂を耳にしたんです。小学生から釜本FC(ガンバ大阪ジュニアユースに統合)で一緒だった同級生の友達で、僕以上に練習に参加できていない子がいました。あるコーチはその子に対し「あいつは練習には来ないけど、上手いから試合に出す」と言っていたのを友達伝いで聞いたんです。
僕にはその友達とサッカーにおいて明確な差があったは到底思えないし、こんなに苦労して頑張っているのに、どうしても納得ができませんでした。もし、彼がしっかり練習に参加していたのであれば、塾で練習を休みがちだった僕に言えることはありません。でも、そうではなかったんです。彼は僕以上に練習に出れていなかった。
理不尽な出来事に直面した時、人は2つの行動パターンがあると思います。抗うことをやめ無力感を覚えるのか、それとも見返そうと奮起するのか。僕は後者でした。
稲本たちのような“特別”な選手を見て、早々にプロになることを諦めていた僕は、ガンバに練習に行く意味を見出せなくなっていました。そんな僕にとって、この出来事は眠っていたモチベーションに火を灯すきっかけとなったのです。
特技は何? と聞かれた時に胸を張って「サッカーです」と言える自分になりたい。それが、つらいガンバの練習に通う“新しい目標”となりました。

靱公園での大阪スポーツマンクラブ時代の橋本少年。エースでキャプテンを務め、「サッカーが楽しかった」と振り返る。中学になりガンバ大阪ジュニアユース所属となってから、環境は一変していく。
ひたむきな努力は自主性を生む
まずは練習の取り組み方、そのものを変えました。変わらず塾にも通い、勉強を疎かにはしませんでしたが、一つのトレーニングに集中し、真摯に向き合うようにしたんです。時間が限られていた僕にとって、一つの練習も無駄にできない思いでした。
ガンバアカデミーの監督・コーチを歴任され、当時の中1を担当していた鴨川幸司(FCティアモ枚方 アカデミーダイレクター)さんは、Aチームを中心に見ていました。僕らCチームのメンバーは人数も多いし、トレーニング最後の基礎練で見てもらう程度だったんです。周囲はそれを「やらされている」感覚だったと思いますが、僕は鴨川さんに「これをやることが大事」と言われたことは、貪欲に吸収していきました。
「続けていけば上手くなれる」と信じて、周囲が10回やっていたら僕は15回はやっていたと思います。また、自分より上手い選手には、どう練習すればいいか聞きに行くようにもなりました。それまで燻っていた自分が、取り組み方を変えることで、自主性が出てくるようになったんです。鴨川さんが当時の僕に対して、どう感じていらっしゃったかは分かりません。でも、真摯に練習を続けていくことで、自然とチームにおける自分の立ち位置が変わっていったんです。試合にこそ出られませんでしたが、中1の終わりにはAチームで練習をさせてもらうようになっていました。

ガンバ大阪のアカデミーは天賦の才を与えられた天才ばかり。練習へのひたむきな姿勢は徐々に結果となって表れたが、チーム内競争は苛烈を極めた。
苛烈な競争下、“違った視点を持つ”選手に
少しずつ結果を積み上げて行った僕でしたが、当時、Aチームの同い年のメンバーはガツガツと前に出る選手ばかり。文句を言う選手が多くて、本当に苦手でした。PKになったら「俺が、俺が」と全員が手を挙げるようなチームです。逆に僕はというと「どうぞ、どうぞ蹴ってください」というスタンスでした。責任を負いたくないという気持ちも、当時は多分にあったと思います。そんな経験からか、僕は周囲とは違った視点を持つ選手になっていったという自覚があります。
前回で兄の話を書かせてもらいましたが、彼は釜本FCで副キャプテンを務め、コーチからの信頼も厚かった選手です。その影響からか、弟の僕は上に引き上げてもらう機会も多く、中2の頃は中3のチームの練習に呼ばれるようになりました。でも、僕にとってはそれが重圧でした。先輩からは文句を言われるし、同い年の連中は前述のように「俺が、俺が」ばかりですから……。僕が困っていても、誰も手を差し伸べてはくれません。今、思い返してもキツかったですね。
僕がサッカーを心から楽しく思えたのは、小学校卒業までです。ガンバのジュニアユースに入ってからは、天賦の才を与えられた猛者の中で、ただひたすらもがき苦しんでいました。でも、そんな僕には、唯一心の支えとなる“拠り所”とも呼べる場所があったのですーー。
VOL.3に続く
PROFILE
- はしもと・ひでお
- 1979年5月2日生まれ、大阪府出身。1998年にガンバ大阪に入団、2019年よりFC今治にてプレー。日本代表としても国際Aマッチ15試合出場。2014年にプエンテFCスクールを開講し代表に就任。
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