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【スポーツ成長法則 vol.6】<前編>熱血野球教師から書道家へ。
心のキャッチボールで育む「夢追う力」/栗原 正峰

スポーツが人を育む力について聴く「スポーツ成長法則」。第6回目は、書道家で高校教師でもある栗原 正峰(くりはら・せいほう)さんです。部活動の現場で多くの生徒を見守ってきた栗原さんが考えるスポーツが人を育む力、挑戦と挫折、これからの夢について話を聴きました。

文=鶴岡優子(@tsuruoka_yuko

 

書道、農業、スポーツ、デザイン。複数の顔をもつ教育者

 栗原 正峰という人間は、本当は5人いるんじゃないか――。

 そんな冗談を友人に言われるほど多彩な顔をもつ栗原 正峰は、パリ、スペインなどの芸術賞を受賞する書道家でありながら、埼玉県の公立高校 で森林科学を教える現役の高校教師でもある。栗原の専門は「造園」で、教職について20年以上にわたり農業高校や農業科で指導をしている。とくに養蚕についての知識は深く、桑園について論文を発表する研究者の顔ももつ。また、伊勢崎銘仙のブランディングの発起人として、オリジナルCAPのデザインにも携わる。これらに加え、デザインの視点を活用し地域の未来を研究するため大学院に入り、自らも学生として学んでいる。

「書をはじめとする私のすべての活動は、教育につながっているんです!」と、栗原はよく通る大きな声で話す。生徒一人ひとりと向き合うときも、いつも真剣勝負だ。栗原を恩師と慕うプロバスケットボール選手の飯島康夫氏は、栗原のことを「THE熱血野球教師」とよぶ。甲子園の出場経験もある栗原は、野球、バスケ、登山、ソフトテニスなど、高校の部活動の顧問も熱心に取り組んきた。スポーツの指導者としても実績豊富だ。

 しかし、栗原の教師としての道のりは、決して平坦ではなかった。

 

高3の夏、甲子園のベンチで夏が終わる

 栗原は高校野球の監督をしていた父親の影響で、少年野球を始めた。小中時代は野球に没頭し、プロ野球選手を本気で目指すようになる。高校は野球の強豪校である農大二高に入学することができた。しかし、強豪校に集まってきたトップクラスの部員70名を前に、栗原は自らの実力を思い知る。二つ上の先輩にはプロ野球で活躍した清水将海氏が、同じ代にはホンダの監督も務めた岡野勝俊氏もいた。

「ベンチにも入れず、応援席で大根踊りをしながら、俺は何をやっているんだと悔しくて。それで人の何倍も練習するうちに、少しずつ試合に出られるようになったんです」

 高校3年の夏、第76回全国高校野球選手権大会群馬県決勝は、50年以上の歴史を誇る農大二高野球部で語り継がれる試合だ。宿敵前橋工にリードされていたピンチを、リリーフとして登板した栗原が0点に抑えた。仲間の活躍もあり、9対4で逆転優勝。甲子園への切符を手にした。甲子園ではベンチ入りした16人のうち4人がピッチャーで、栗原も入った。しかし、栗原の登板はないまま、農大二高は2回戦で敗退することとなる。

 3年の夏が終わり、このまま野球を続けるかどうか、意思決定の分岐点に立った。栗原が選択したのは、プロへの道ではなく野球の指導者になる道だった。

「限界を感じたというのが1番の要因です。あれだけ練習してレギュラーになれないのだから、プロなんて到底無理だと悟りました。でも、野球には携わりたいという気持ちが強かったですね。父親が高校野球の監督をしていたので、指導者になることは意識していました」

 

 

「指導者」ではなく「教育者」になりたい

 東京農業大学に進んでからは、教員資格の取得を目指しながら、母校の農大二高野球部にコーチとして赴任した。県内から集めたエース級の選手が集まる後輩の部員を前に、栗原は熱心に指導にあたった。しかし、なぜか結果がついてこない。

「技術力が高い選手を集めても、勝てるわけではない。試合に勝つことを優先しすぎるあまり、選手同士がギクシャクし、チームワークが足りていなかったんです。勝つことを目指し努力するからチームは成長するのですが、一人ひとりの部員の人生を考えたら勝ち負けだけではないのです」

「当時の高校野球の練習は、すごくつらいものでした。自主性が大事と言いながらも、勝つためにやらなきゃいけない練習が多い時代でした。高校卒業して野球を続ける人は少なかったのは、そういった理由もあったと思います。私は選手からコーチになったことで、それまでの部活のやり方に疑問を感じるようになったんです」

 ここで、栗原の人生の目標が変わった。

 野球の「指導者」ではなく、人としての生き方を教える「教育者」になろう――。

 

2名だけの野球部。草ぼうぼうのグラウンド

 大学卒業後、初めて赴任した埼玉の県立高校で、栗原は衝撃を受けることになる。

「教室で自己紹介をしようにも、クラスの生徒全員が着席していないんです。今は落ち着ついていますが、20年ほど前は鑑別所や少年院にクラスの生徒の面会に行ったこともありました。暴走族、ヤンキー、ギャルなどいろんな生徒とたくさん関わりましたが、根はみんないい子たち。今となっては笑える話、泣ける話が山ほどあります」

 念願の野球部の顧問になれた。しかし部員はたった2人しかおらず、グラウンドには草が生えていた。なんとか9名まで部員を集めたが、野球経験者は2名だけ。相撲、卓球、剣道、サッカーなどの経験者の寄せ集めだった。野球のルールも知らない、キャッチボールもできないメンバーだ。

「『やる気あるのか?』と聞いても『ありませーん』と返ってくるありさま。サインもわからない選手に『バントだよ!』って口で言うしかなくって、相手チームに驚かれました。それまで自分が歩んできた名門野球部の部活とは、まるでかけ離れた地点からの出発でした」

 最初の夏、出場した第82回大会予選は、0-44の5回コールド負け。1試合30盗塁、1イニング38得点という不名誉な新記録が作られてしまった。新聞にも取り上げられ、周囲にからかわれた部員は本気で悔しがった。これを機に、部員の方から栗原に指導を求めるようになった。

 新米の熱血教師の、奮闘が始まった。

 

負けても勝つ。野球ではなく「人生の勝者」へ

 初心者が多いチームでは、できる練習が少なすぎる。「あいさつ。道具を大切に扱う。大きな声を出す。まずは、野球に取り組む姿勢から教えました」。熱血指導についてこれず、辞めたいと申し出る部員もいた。そんな時、栗原は部員を集め「部活より大事だから」と何度もミーティングを行った。

「部員と本音で話し合うと、『なぜ、私ばかり厳しく指導されるのか?』といった私への不満も口に出してくれるようになったんです。腹を割って話し合うことで、部員同士も、私と部員の間にも、フォローし合う関係性が生まれました。これは、大学のコーチ時代との大きな違いだったんです。それからですね、部員がどんなピンチの時でもチームのことを考えたり、声が出せるように変わっていきました」

 2年目の春、地区予選に出場したが、予選1回戦目で4-12のコールド負け。しかし前年と大きく違うのは、どんなピンチの時でも声を出し、最後まであきらめず全力で戦う部員の姿だった。そんな姿に観客や相手チームからも応援の声があがった。

 それ以降、栗原のチームには強豪校から次々に練習試合が申し込まれるようになった。野球の技術ではなく、野球に取り組む姿勢を学びたいと、声がかかるようになったのだ。

「練習試合を受けても、弱いから負けてしまうんですよ。技術的なレベルの差は、どうしても埋められない。でも野球には負けても、何か別のところでは相手チームに勝っていたと思うんです。当時の部員たちは卒業後、社会人としてさまざまな分野で働いています。野球の道には進まなかったけれど、若くして工場長に抜擢された人もいるし、幸せで豊かな人生を生きている人が多いと思います。それを思うと、やはり野球は試合に勝つためだけではなくて、人生の勝者となるための人間的な成長の場と捉えた方がいいと考えています」

 

野球部の指導でノックを打ち指導に明け暮れた日々

 

- 後編に続く-

 

PROFILE

栗原正峰(くりはら せいほう)
書道家。教育者。 書とアートが入り混じる独自の世界観が高い評価を受け、フランスの芸術展覧会サロン・ドートンヌ、ル・サロンで入選するなど国内外で活躍する書道家。高校教員としては造園や森林について教鞭をとりながら、野球、バスケ、登山、ソフトテニスなどの部活動の顧問として部員を指導している。自身は野球の名門、東京農業大学第二高校で甲子園出場経験がある。いせさき教育アンバサダーとして「夢」「心」をテーマに講演を行うなど多彩な活動を行っている。
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