COLUMN

【スポーツ成長法則 vol.1<前編>】「利益も勝利も○○にすぎない」という生き方/野澤武史

PROFILE

のざわ・たけし
1979年4月24日生まれ、東京都出身。慶応義塾幼稚舎5年生からラグビーを始め、慶應義塾高校では主将としてチームを花園に導き、全国高等学校ラグビー大会ベスト8進出に貢献。慶應義塾大学ラグビー部では2年次に大学日本一に輝く。神戸製鋼コベルコスティーラーズにて現役引退後、母校の慶應義塾高校や慶應義塾大学でコーチを務め、U17日本代表ヘッドコーチに。日本ラグビー協会リソースコーチとして人材の発掘・育成にも勤しむ。現役時代のポジションはフランカー。グロービス経営大学院卒(MBA取得)。 山川出版社代表取締役副社長、一般社団法人「スポーツを止めるな」代表理事。

 

幅広い分野で活躍するビジネスパーソンに、スポーツが持つ「人を育むチカラ」について聞いていく「スポーツ成長法則」。第1回は、山川出版社代表取締役副社長にして日本ラグビー協会リソースコーチを務める野澤武史さんです。

 コロナ禍の混乱は進路を控える高校3年の部活プレーヤーにも波紋を呼んだ。彼らにとって、大学や社会人チームのリクルーターの“ショーケース”となる大会が相次いで中止され、両者をつなぐ糸が分断されてしまったのだ。そんな解れた糸をつむぐべく立ち上がったのが、山川出版社代表取締役副社長の野澤武史さんだ。元日本代表のフランカーにして、日本ラグビー協会技術委員会のリソースコーチの肩書も持つ、ラグビー界のキーパーソンである。彼が中心となって推し進められたプロジェクト「#ラグビーを止めるな2020」は、同様の悩みを抱えた他のスポーツ界をも巻き込み、大きなムーブメントに発展。7月には一般社団法人「スポーツを止めるな」が設立され、あらゆる支援活動が継続して行われている。同社団法人の代表理事も務める野澤さんは、 ある<信念>を持ってこの活動に勤しんでいると言う。その強い想いと人を巻き込むパワーの源は何から培われたのか? 前後編にわたって彼の成長ストーリーを追うことで紐解いていく。

 

「スポーツを止めるな」はアスリートによる競技への感謝の気持ちが形になったもの

 

――進路に悩む高校生のリクルート支援として広まった「#スポーツを止めるな2020」の活動ですが、これを一過性のものとず、永続的な支援を続けるために一般社団法人「スポーツを止めるな」を立ち上げられました。一連の活動の成果をどのように感じていらっしゃいますか?
「社団法人立ち上げから短期間にいくつかのプロジェクトを実施できました。『青春の宝』はコロナ禍により試合ができずに引退した学生の思い出の試合映像に、トップ選手が解説と実況をつけてプレゼントするプロジェクトで、すでに数件ほど実施しています。8月24日には共同代表理事の廣瀬俊朗(元ラグビー日本代表)が、坂出第一高等学校にZoom(web会議ツール)で『現代を生きる力をつける教育プロジェクト』を行いました。これは学校の全部活動のキャプテンが参加し、リーダーシップ教育を行うものです。県外への活動をも制限されているなか、競技を横断して学生アスリートの支援活動ができていること自体が、何よりの成果ではないかと思っています」

 

――野澤さんが発起人となって広まった「#ラグビーを止めるな2020」は、学生自らがタグ付けしたプレー動画を投稿し、リクルーターの目に留まった選手が勧誘を受ける仕組みでした。この活動の背景には大学、トップリーグ、そして現役選手の協力を取り付けた、野澤さんたちの事前の根回しが大きかったと思いますが、改めて成功要因は何だったと思いますか?
「結果的にコロナ禍が、競技間に横串を入れたのは間違いないです。コロナがなければ今まで通りの活動が行われていたはずです。5月30日に各競技の有志が一堂に介したカンファレンスでは、『ここが変だよ〇〇』じゃないですが、それぞれが競技として抱える構造の問題点を感じていて、有意義な意見交換ができました。こうして多くの方を巻き込めていけたのは、学生スポーツへの恩返しの気持ちがあったのだと思います。決して突発的に始まった活動ではなく、もともと『スポーツを止めるな』という気持ちが皆さんにあった。それが顕在化したにすぎないのではないかと思います」

 

――競技への感謝の気持ちが波及していった結果だと?
「間違いないです。現在、『スポーツを止めるな』には日本ラグビーフットボール選手会、日本バスケットボール選手会が提携してご協力くださっています。かつての自分もそうですが、子どもの頃は気付かなくても、大人たちがスポーツができる環境を与えてくれていました。今度は自分たちがいい形でバトンを次の世代に渡したいという気持ちなんだと思います」

 

――Twitterをはじめ、InstagramのストーリーやTikTokなど、今や高校生が自ら動画をSNSに上げるのが当たり前の時代になっています。
「9競技で1300件以上の学生アスリートが動画を上げてくれています。ラグビーでは1人で7万回の再生回数を集めたものもありました。学生はもちろん、先生方が動画をアップしていただいたことも成功の要因だと思います。ただし、SNS自体を規制している学校もありますから、そこは『スポーツを止めるな』が安心・安全に学生がアピールできるシステムの開発を進めているところです」

 

――「スポーツと止めるな」の今後の活動について教えてください。
「すでに申し上げました3つの柱を進めていきます。『青春の宝』『現代を生きる力をつける教育』、そして『選手が安全にアピールできるシステム』の開発です。コロナが収束した後も、学生アスリートがよりオープンな場で、自分らしく競技を楽しんでもらう環境づくりは不変的なものだと思っています。継続して学生アスリートの進路支援に寄与していきたいと考えています」

 

やり始めが肝心! 上手くいくと続けるのが楽しくなる

 

――ここからインタビューの本題になるのですが、野澤さんの人間力を形成したであろうラグビー体験について伺っていきます。ラグビーをはじめたきっかけはどのようなものでしたか?
「僕が通っていた慶應義塾幼稚舎では5年生からクラブ活動が始まるのですが、運動ができる子はラグビーをするという風潮があったんですね。部活はラグビー部でしたが、サッカースクールにも通っていました。中学からどちらかを選ぶことになり、僕はラグビーを選びました」

 

ーー昨年のワールドカップの成功もあり、ラグビーは競技人口も増え続けている印象がありますが、当時コンタクトスポーツをすることに抵抗はなかったですか?
「私はまったくなかったですね。むしろコンタクトスポーツが性に合っていました。ただし、競技人口に関しては2011年の10万人を割ってから減少傾向にあるんです。やっぱり地方の学校の部活動で15人を集めるのは大変なことです。たしかにワールドカップの影響で小中学校のラグビースクールは増えているのですが、一番分母が大きくあるべき高校ラグビーの人口が減少傾向にあります。そこが課題になっています」

 

ーー野澤さんは慶応義塾大学ラグビー部まで、学生時代は慶應一筋でラグビーに励まれいらっしゃいます。続けられた要因は?
「若い頃に成功体験を詰めたことが大きいと思います。小学校の頃は定期戦で強豪の青山学院に10年ぶりに勝利し、中学校では東日本大会で優勝。高校では花園(全国高校ラグビー大会)で30年ぶりにベスト8に進出しました。何事もやり始めたときに上手くいくと楽しくなるじゃないですか? あとは仲間に恵まれたってことですね。その時のメンバーがずっとエスカレーターで大学まで行けるのが慶應の良さでもあります」

 

選手に責任を委譲することで、考える時間を与えた慶應ラグビー部での成長

 

ーー慶應義塾中高ラグビー部の伝統などはあるのでしょうか?
「伝統的にいい選手がいないということで、いかに勝つかを考えてきた組織です。タックル=ディフェンスなのですが、それができない選手はどれだけアタックができても試合に出られない伝統がありました。あとは勝たなくてもあまり怒られない(笑)。今になって、強豪校の出身選手と話すのですが、それはもう地獄のようなプッシュ(トップダウン)型のコーチングを受けてきたと。『よくお前ら辞めなかったな!』と言っています。対して、慶應はプル(引き出す)型というより、僕ら選手に責任を委譲して、考える機会を与えてくれていました。そもそも監督が会社員で、学校の先生じゃないんですよ。週末しか指導に来ないので、練習メニューは僕らが考えるし、それが当たり前だと思っていました。それこそ、花園を決める神奈川県予選の決勝も、ニューヨーク出張で監督はいませんでした」

 

ーー平日はどのように練習していたのですか!?
「キャプテンの僕が練習メニューからすべて考えていました。他のチームは可哀想なくらい練習していたのに、慶應は選手たちだけで練習をしていたのです。だから僕の代は強かったですけど、勝てない世代は勝てないです(笑)」

 

ーーつまりキャプテンの役割が非常に大きかったわけですよね。ただでさえ神奈川県は桐蔭学園高校など全国屈指の強豪校揃いです。どのようにして勝てるチームを構築していったのですか?
「僕らの代は、とにかく頭のいいヤツが揃っていました。中学校ではスタメンから2人弁護士になったし、高校では2人が会計士になったのかな? 副キャプテンの加藤正臣は高校の日本代表に入る優秀な選手で、細かく論理立てすることに長けていた。『スポーツを止めるな』で活動を共にした最上紘太は構想力がすごかった。僕はどちらかいうと突破力派なので、最後に決断するところが得意でした。それぞれが役割を最大限に発揮したことが、奏功したということなのかもしれません」

 

慶應での成功体験から抜け出せなった神戸製鋼での挫折

 

ーー監督からのトップダウンでなく、完全に選手主導でのチーム体制となると、選手間のコミュニケーションは欠かせませんよね? チームの絆は相当強いものであることが想像できます。
「だから楽しかったですよ。僕らの代は特に仲がよかった。高校1年の時に仲間4人で花園ラグビー場のある大阪に行って、全国高校ラグビー大会を見に行ったんですよ。当時、神奈川県は全国を2連覇した相模台工業高校というものすごく強い学校があって、誰も慶應が勝つなんて想像もできない状況でした。でも僕らは全国大会での彼らの試合を見ながら『こうすれば勝てる!』なんて言い合っていました(笑)。自分たちでああでもない、こうでもないと思考錯誤する作業は、今思うと楽しかったですね」

 

――そのメンバーが2年後に花園の切符を掴むのは映画のようですね。
「県大会の決勝で勝ち、花園出場が決まった瞬間は今でも覚えています。ニッパツ三ツ沢球技場は塀が低かったので、嬉しさのあまりに応援団100人くらいがグランドに流れ込んできたんですよ。もう会場は大混乱で、あとでもの凄く怒られましたね(笑)」

 

――まさに順風満帆な選手生活であったことが分かりますが、挫折を経験したことはなかったですか?
「大学2年次には全国大学選手権で優勝し、ドラフト1位のような扱いで神戸製鋼に入団しました。大学3年生で日本代表になりましたが、実はそれが僕にとって最初で最後の日本代表だったんです。鳴り物入りで入団した神戸製鋼では、結果的に7年間で29試合しか出られませんでした。神戸製鋼で求められた僕の役割は、野球で言えば7回途中にでてきて9回のクローザーにつなげるセットアッパーの役割だったのです。ずっとエースで4番の感覚が抜けず、慶應時代の成功体験から抜け出せずにいました。でも5年が経過し、27歳にもなると(試合に)出る、出られないに関わらず、もう自分のラグビーを追求しようと思えるようになったんです。どうやったら評価されるのかではなく、自分自身の理想のプレーができたらいいんじゃないかと思えるようになりました。それまで他人のものさしで自分を評価していましたが、野澤武史のオリジナルにシフトしたんです。それは人生の大きな転機でした」

 

――後編につづく――

7

記事に対するコメント

関連記事