COLUMN

【スポーツ成長法則 vol.4】〈前編〉脱・常識が強さの根源。理不尽なスポーツの世界で育つ「折れない力」/宮田 誠

PROFILE

みやた・まこと

株式会社ユーフォリア代表取締役。
長野県出身で白馬村在住の親族3名に冬季五輪選手がいる環境で育ち、大学生までスノーボードの選手としてプロライダーを目指す。明治大学商学部産業経営学科卒業後、エネルギー関連の商社、株式会社ブリヂストンでグローバルに活躍。ブリヂストン退職後、白馬村を中心に各地のスポーツ大会の主催・運営、スポーツマーケティング/コンサルティング事業を手がける。2008年に橋口 寛氏とともに株式会社ユーフォリアを創業。

スポーツは健康などフィジカルな面だけでなく、自己肯定感、論理思考、やりぬくチカラなど人生を生き抜く力に結びつく。しかし、その結びつきを解像度高く語れる人は少ない。そこで、幅広い分野で活躍するビジネスパーソンに、スポーツが持つ「人を育むチカラ」について聞いていく「スポーツ成長法則」。第4回目は、株式会社ユーフォリア代表取締役宮田 誠(みやた・まこと)さんです。

文=鶴岡優子(@tsuruoka_yuko

活況のスポーツテック業界でひときわ注目を集めているのが株式会社ユーフォリアだ。スポーツ選手のコンディション管理、ケガ予防、ピーキングのためのSaaS型データ管理ソフト「ONE TAP SPORTS(ワンタップスポーツ)」をラグビー日本代表、プロ野球、Jリーグ、Bリーグなどに提供し急成長しているベンチャーだ。ユーフォリアの代表取締役 宮田さんは、「努力が必ずしも報われない、理不尽さが凝縮しているのがスポーツの世界」だと話します。理不尽な世界だからこそ育つ「折れない力」の秘密に迫ります。

 

「分散して走る」で大成功!白馬国際トレイルラン

夏の高原を駆け抜ける白馬国際トレイルランは、毎年多くのランナーが集まる大人気の大会だ。このトレイルランの発起人である宮田さんにとって、白馬村は幼いころからスキーを練習してきたふるさとだ。スキー人口の減少にともない観光業が落ち込む白馬村を、夏のトレイルランをきっかけに通年リゾート地に転換させた地方創生の成功事例でもある。そんな白馬国際トレイルマラソンも、2020年の第9回大会はコロナ禍において開催の可否に悩まされることとなった。

宮田さんと地元の若手で組織する実行委員会は、「こんな時だからこそ開催したい」とある大きな決断をする。それは大会当日の参加人数を抑えるため9月をまるまる1ヶ月予選期間とし、好きな時に「分散して走る」という常識では考えにくい試みだった。参加者はランニングログにはYAMAP(他社アプリ)などを利用、体調記録はONE TAP SPORTSに入力し、少人数で走ってもまるで同時に多くの人と走っているようなゲーム性を楽しむことができる仕組みだ。「密を避け、大自然の中をのびのびと走ることができる」とランナーからは好評だったという。また予選時期を長くしたことで、のべ参加人数をコロナ禍でも700名程度まで確保することができた。宮田さんは、「コロナ禍で難しいチャレンジだったが、結果、新しいトレイルラン大会のフォーマットを発見してしまったかもしれない」と笑って話す。そんな宮田さんは、現在は白馬だけでなく、日本各地でスポーツ×地方創生を手掛けるスポーツマーケティング・コンサルティングのプロフェッショナルだ。

毎年大人気の白馬国際トレイルラン(写真は2015年開催時)。

9月に開催された白馬国際トレイルランは、コロナ禍であっても「分散スタート」という新たな試みで成功を収めた。

 

親族3人がスキーのオリンピック選手。高校でスキーからスノーボードに転向する

1998年開催の長野オリンピックの舞台でもある白馬村は、人口約9,000人でありながらオリンピック選手を何名も輩出する日本屈指のスポーツ王国だ。おじ二人とおばがアルペンスキーのオリンピック選手、親族もみなスキー選手という環境で育った宮田さんは、当たり前のように幼少期からスキーを始めた。しかし、小学生の時、家の都合で東京に引っ越すことになる。週末に雪山に通って練習するが、白馬に住み白馬で滑っている人には到底勝てないし、自分の存在感を示すことはできないと思った。そこで高校1年の時、当時まだポピュラーではなく競技人口が少ないスノーボードに転向し没頭することになった。

アメリカから輸入されてきたスノーボードは、当時はまだ指導者がいない状況だった。宮田さんはスノーボード専門の雑誌や映像を取り寄せて、技を独学で学んだ。スノーボード用のキッカー(ジャンプ台)は、仲間とスコップで作った。暗くなれば車をハイビームにして、明かりを確保した。スマホがまだなかった時代、ジャンプの高さやフォームはフィルムカメラで撮影し確認していたという。

「白馬村をはじめとする雪国では、幼い頃からスキーの各種目をやって、成長とともに向いている種目に分かれていくんです。文系、理系みたいにアルペンスキー、ジャンプねって。オリンピアンやプロが近くにいて五輪が遠い夢ではない環境とはいえ、東京から通ってたんじゃ到底勝てない。スノーボード(フリースタイル)はタイムや距離ではなく技を競う種目。当時の日本ではまだ手探りの種目だったけど、当時は『大変』というよりは『あそび』の延長のような感じだった」

大学生の頃、スノーボードでプロを目指した宮田さん。写真は自作ジャンプ台でのエアを収めた1枚。

 

東京在住でも年間100日は雪上。五輪ではなくプロを目指す

東京と白馬・新潟を往復し、年間100日は雪の上で過ごす生活が続いた。大学生の頃、スノーボードのブームが到来する。宮田さんも他のプレイヤーと同じくプロを目指した。五輪でメダルをとることよりも、Xゲームなどメジャーなツアーに出場する方が多い種目だからだ。スキーの経験が生き、上達が早かった宮田さんにもスポンサーがつくようになり、あるチームのプロライダーを目指し練習を重ねた。しかし、高速で滑走しジャンプやパフォーマンス性も求められるスノーボードは、一歩間違えると大きな怪我につながる。宮田さんも練習中に鎖骨を大きく骨折してしまった。その後、立て続けに同じ箇所を骨折し靭帯もいためてしまう。

「怪我をするまでは怖いもの知らずで、どんなに高いキッカー(ジャンプ台)も怖くなかったんです。でも、怪我の後、挑めなくなった。チャレンジができなくなる。怖いものができた時点で、スノーボードのようなエクストリーム系のスポーツはダメなんです。自分でも辞め時だなとわかりました」

 

 

商社でビジネス基礎力を学ぶが、台湾で失敗した理由

スノーボードでご飯を食べていくことを断念し、不本意ながらも就職活動を始めた宮田さんが選んだのはエネルギーの商社だった。就職先として白馬やスポーツ関係の仕事は全く考えなかったという。「選手として上にいけないなら、やらない」そんな気持ちだった。

「世の中で誰かがプロデュースしたものをこれまでは学生や選手として消費していた。これからはそれを生み出す側に行こう」と考え、社会の経済活動を支えるエネルギー商社に注目する。結果的に商社から内定はもらえたが、採用面接では長く打ち込んできたスポーツの経験について言語化することができなかったという。

「僕はしつこいんです。根気強い。それは間違いなくスポーツ経験から得たもの。上に行きたい、そのために自己学習しのめり込む。情報は自分で取りに行くし、探究、研究で答えのないものを探すことができるんです。今ならそれができるのはスポーツの力だと言えるのに」

商社での最初の3年は、スポーツでいうところの厳しい基礎訓練。毎日やめてやると思っていたが、その筋トレが4年目のブレイクにつながる。台湾の仕事を任されることになり、現地と日本を往復する生活になった。「英語ができなくても物怖じせず、恐れもない。楽しさしかなかった。現地でビジネスパートナーを探し、ゼロイチで立ち上げていく仕事にのめり込みました」と当時を振り返る。常識が通用しない、何の武器も持っていないからこそ、のびのびと力を発揮できた。3年間の基礎訓練で一通りのビジネススキルを身に付けていたことも大きく役に立った。

しかし、台湾での仕事は大きな失敗に終わる。理由はいくつかあったが、宮田さんが大きく反省したのはファイナンスとマーケティングの知見なしで事業を進めていたことだった。

 

 

――後編につづく――

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